嗚呼、どうして。
 自分の目の前で笑いながら他愛もない話をする男を見ながらぐしゃりと顔を歪める。
 すきになってしまった。
 目が反らせない。
 笑った時の顔が太陽を浴びた向日葵の様で。
 ルッキズムとじんわりとしたカースト制度に支配されているこの教室の中で誰にでも隔たりなく話しかける、本当にこんな人間がこの世にいるのか? と言いたくなる様な人。
 勿論、その人間性のおかげか彼の周りには男子も女子も等しく輪になって、彼と言葉のやり取りをしている。
 女子の中には彼と近付いて、隙があれば彼女という地位を手に入れようという野心(下心ともいう)を抱いているのもいるだろう。そして彼はきっとそういう女子の存在にも気付いている。
 気付いていて尚、変わらぬ態度で接しているのだ。
 ――ある意味、全員に興味が無いのかもしれない。
 そんな彼を見て思う。人に平等に優しい人物はそこにいる全員に興味がないか、それとも全員嫌いか、というのをどこかで見かけたのだ。多分インターネットだったと思う。
 だから、本当はこんな気持ちを抱いてはいけなかったのだ。
 彼を、すき、だなんて。
 本当ならこの、誰かを好きになるという気持ちは跳ねるような、今まで知らなかった世界を知るような、自分がちょっと大人になった様な、そんな心踊る感情なのだろう。
 相手が異性である場合、は。
 今の時代、多様性という事でようやく異性愛以外もあるという認識はされつつあるけれど、学校という果てしなく時代遅れのこの空間では異性愛以外は「異物」「異端」とされ、「普通」ではないが故に迫害してもいい事になっている。そう、暗黙の了解になっているのだ。
 アイツが「普通」じゃないから。自分達とは違うから。理解できないから。たったそれだけの理由で友人が悪魔になる。
 誰かをすきになる。それ事態は決して悪い事ではないのに。
 自分はどうであれ、その感情を向けてしまった人にまで迷惑がかかってしまう。酷い時はその人も「異端」のレッテルが貼られてしまう。それだけは避けたい。
 と、なると答えは簡単だ。
 この感情を外に出さなければいい。そして墓まで持ってってしまえばいいのだ。
 そう思って鞄から本を取り出す。
 本を広げてしまえば、話しかけるなという盾になるのだから。
 なのに。
「何の本読んでんの」
 生徒の輪を抜けるようにしてこちらに近付いてくるではないか。
 構えていた盾もあっけなくどかされてしまう。
「……別に、何読んでてもいいだろ」
 出来るだけ目を合わせない様に、必死にページに視線を落とす。そこに書いてある文章はもう言葉を綺麗に敷き詰めた何か、にしか見えない。
 内容だってこれっぽっちも頭に入ってこない。
「そうか? でもほら、その本この前読んでたのとは違うよな?」
 ――何で、気付いているんだ。
 何も答えない。開示しないという事は壁を張っているという事になるから。
「本……読むの速いのすげぇよな」
 俺教科書読むのすらキツくって、とこちらの反応などお構いなしに話し続ける。別に本を読むのが速くても何の得にもならない。
 ちら、と周囲の様子を確認するとクラスメイトの何人かがこちらを凝視しているではないか。
 それもそうだろう、自分達の会話を中断して教室の端にいる自分の様な陰キャだけを構っているのだから。
 これはいけない、と察して本を閉じて。
 どっか行くのか? と声をかけられたが、別にどこだっていいだろ、と答えて。
 まだ何か言いたそうな顔をしているのには気付いたが、これ以上クラスメイトの視線には耐えられそうになくて、そそくさと教室を後にした。
 彼が教室を出て行く背中を見ながら「逃げなくてもいいだろ……」と寂しそうに呟いたその言葉に気付く筈もなく。

 「好き」という感情を隠し続け、彼から逃げ続け、「普通」を装い続けていたある日、彼はクラスメイトの一人から衝撃的な言葉を聞いてしまう。
「お前、アイツの事好きなんだろ?」
 ――は……?
 どうして。なんで。一体どこから。いやいやいや、今否定すれば何事もなく流せる筈だ。いや、この話がどこまで広がっているかにもよるけれど。
 頭の中が真っ白になる。一体どこからそんな話が出たのだろうか。確かに彼は相変わらず教室の端にいる自分に声をかけてきていたし、その都度逃げてきた。だのに、だ。
「……俺が? そんな馬鹿な」
 ズキ、と胸が痛む。自分の本心に嘘を吐くという自傷。体裁の為に隠さなくてはいけない感情。
 これが男女であればまた違ったのに。
 どうして、男が男を好きになってはいけないのか。人を好きになるのに性別という括りは必要なのだろうか。人間は人間を好きになる生き物だ。こればかりはどうしようもなくないか。
「本当か? 女子達が噂してたぜ? アイツがお前の事を特別に構うのはお前がアイツの事好きだから揶揄ってるだけだって」
 嗚呼。
 奥歯を噛みしめる。本当に下らない。邪推と憶測だけで物を話すだなんて。
 ギリ、と噛みしめすぎて奥歯が軋む。
「……だったらアイツにも言ってくれよ、俺の事は放っておいてくれって。別に好きでもなんでもないし」
 ごめん、と自分と彼に心の中で謝りつつ、彼は言葉をひねり出す。
「男が男の事好きってキモいだろ」
 自分の口からそんな言葉を紡ぎ出したくなかった。己を否定する言葉。心を殺す一言。
 残酷な言葉を吐いてから、舌をぎゅうっと噛む。このまま舌を嚙み切ってしまえればどんなに良い事か。
 と、その時だった。
「そ、か……」
 丁度教室に入ってきた彼の耳にその言葉が入ってしまったらしい。彼の足はそこでぴたりと止まってしまった。
 あ。と思う。やってしまった。
 違う、と即座に否定しなければ、と脳内で警鐘が鳴る。これは一番やってはいけない、作り出してはいけない状況だと本能が告げる。
 否定したら自分も彼も今後揶揄いの的になるだろう。人の恋愛感情に敏感で、なのに尊重するという事を一切しないクラスメイト達に都合のいい玩具を与えてしまう。
 そうなったらそうなった時に解決策を探ればいい……けれど、この状況は駄目だ。
 彼に最悪の誤解を抱かせてしまう。
「そ、うだよな……やっぱ、キモいよな……」
「おい、お前何言ってんだよ。普通は女の子がいいだろ」
「普通、はな」
「お前まさか」
 マジかよ、とクラスメイトの目から光が消える。いけない、とその表情を見て思う。それは彼がクラスメイトから「異物」という判断を下された瞬間だから。
「お、俺はそういう趣味ねーからな? そういう目で見んなよ⁈」
 うっわ、と言いながら立ち去るクラスメイトを見送って、そこには自分と彼が二人。お互いに何とも言えない表情のまま立ち尽くしていた。
 やばい。やばいやばいやばい。
 頭が真っ白になる。
 背中にじわじわと汗が湧きあがってくる。
 ちら、と彼の方を見ると。
「……!」
 いつもはキラキラと向日葵の様な瞳が、曇天の様な色になっていて。
 その瞬間、二つの事に気付いてしまう。
 彼の本心と、自分が犯してしまった最悪の罪。
 後者に至っては自分の心も裏切ってしまった事になる。
「ぁ……いま、の……」
 汗だくの背中とは正反対に、水分が飛んでしまったのか舌が全然回らなくなった口を開く。急げ、早く弁明しないと取返しのつかない事になる。
 違うんだ、とか。
 クラスメイトと話を合わせる為だ、とか。
 本当はお前の事。
 男が男を好きになるの、キモイだなんて微塵も。
「やっぱ……キモイって思ってたから毎回逃げてたんだな?」
「ちが……俺、は」
「お前、俺の事いつも見てた、から……さ。もしかしたら、とか思ってたんだけど、やっぱそうだよな。そんな訳ねーんだよな」
 ふっ、と笑った顔がこれ以上ない程悲しくて。
 何か言葉をかけなきゃいけないのはわかっているのに、浮かんでくる言葉が全部偽善者の様で、何を言っても効果がないという事に気付いてしまう。
「おれ、は……おまえのこと……」
「いいって無理しなくて。わかってた、俺が普通じゃない事くらい」
「ちが……」
 俺、今日は早退するわ。
 そう言って、彼は教室から鞄を持ち出すとそのまま姿を消してしまった。

 その日以降、彼が教室に姿を現わす事はなく。
 クラス中に彼がゲイであるという事が容赦なくバラ撒かれ、キモイ、有り得ない、嘘でしょ、と好き勝手に言われていく。
 まるでそれは姿が無くなっても尚集団リンチをされている様で。
 そんな言葉達を耳に入れない様にしながら教室の端で、今日も後悔と懺悔の念を抱いたまま、目の前の本に没頭するのだった。
 あの日犯した過ちは永遠に彼を蝕み続ける。